ぐつぐつ日記

懸命に生きます。

朝井リョウ『正欲』における"救い"

朝井リョウ『正欲』(新潮文庫 令和5年)
 
普通じゃない私は、ヒトとして欠陥品だ。欠陥品はこの世に必要ない。だから死ぬべきでは?
こう思ったことが一度でもある人には、刺さる作品だと思う。
私自身、こう思ったことは何度もある。私個人のネガティブエピソードを並べたところで仕方ないので省略するが、学校や職場や家庭で色々失敗した私は、地元から逃げたり、ネットで友達を作ったり、休憩が各自バラバラな職に就くなどしてなんとか人生を送っている
この小説を読んだ人や映画を見た人ならわかってもらえると思うが、ネットでとある性癖の仲間を見つけた佳道を見て、「私は既にこっちの人になりかけていたかもしれない」と思った。この小説のキャッチコピーは「読む前の自分には戻れない───」らしいが、私は別に読み終えた後少し視野が広がったくらいで、衝撃を受けることはなかった。
 
本作の主要人物もみな生きづらさを抱えて生きているのだが、その中でも
・自分を正しいと思いたい「正欲」をもつグループ
・自分を間違っていると思っているグループ
に分けられることは明らかだ。
そこからさらに、救いがあったかなかったかに分けられると私は考える。

 

まず、「正欲」を振りかざし、救われている人物。これは八重子だ。
今の世の中では、多様性を受け入れようという動きが活発になりつつある。そんな中で、大学のミスコンを廃止しダイバーシティフェスを開催する実行委員の八重子は、今の世の中における「正」の人物だ。この八重子が、主要登場人物の中で一番恵まれているし救われている。
八重子はルッキズムに悩み、男の性欲を気持ち悪いと否定するフェミニスト的な人物である。この主張、まあはっきり言って最近の流行りというか、市民権を得ている生きづらさだと思う。市民権を得た生きづらさを持っているから、同じくダイバーシティフェスを開催する仲間にも恵まれる。既に彼女には救いの手が沢山差し出されているのだ。
そんな恵まれている彼女が、とある性癖を持つ諸橋大也に性欲を抱きをネトストをした上、善意で彼の秘密に迫ろうとするのが怖い!!しかし、こういう人種が世の中に増えてきているのだ。
最終的にその諸橋が児童ポルノ所持の疑いで逮捕されたことでさえも悲劇ではないと思う。「結局、特別だと思った諸橋君も気持ち悪い性欲の持ち主だった。私の男嫌いは正しかったんだ。」と自己保身をする材料になるはずだ。
他人に性欲をぶつけながらも男たちの性欲を否定し、それでいて多様性を礼賛する活動をする八重子は、正直言ってこの小説の中で一番気持ち悪い人物だと思う。矛盾点が多過ぎるし、自分を肯定するために正義を振りかざしているだけに見える。まさに自分のことを正しいと思いたがる「正欲」旺盛な人物だ。
 
次に、「正欲」を振りかざすが救われなかった人物、検事の啓喜
啓喜は、検事であり、権威性のある、法的に「正」の人物だ。この小説の中で最も救いがないのが、最も正しい啓喜であるところが現実を皮肉っていると思う。
検事という立場は、心を動かさず、法律で物事を決めるのが正しい。この人は検事として、そして世の中の秩序を守るために圧倒的に正しい主張をしている。
この世の普通のルートから転げ落ちて犯罪に手を染めてしまった人間を沢山みてきた啓喜にとって、小学生の息子が不登校YouTuberになったのは許しがたいことであることは仕方ない。だって、小学校に通わせるのは国民の義務だからだ。
啓喜の妻のいう「無理して学校に行かなくても楽しく生きてくれればいい」という主張は、明らかに間違っている、というか憲法に反している。労働、納税(※寺井の妻は専業主婦である)、教育を受けさせる権利を果たしていない、完全に間違っている立場であるにも関わらず、己の正義を振りかざす妻。そんな妻に捨てられる啓喜。「完全に正しい」啓喜は報われないのが非常に悲しいと思った。
 
これは、『正欲』が、多様性を受け入れようとする人達が礼賛される世の中への皮肉の作品だからだと私は考える。
最近は八重子のような人物が「古い価値観を捨てて多様性を認めよう!!」と大声で言い張っている。
例えば、「女性も社会に出て働こう」という風潮が強まってきた。これは働きたい女性にとってい風潮だ。しかし、古い価値観は否定されるのだ。「専業主婦なんて古い!甘えだよ!女性も働かなきゃ!」。多様性を認めるのであれば、「男性も女性も働きたい人は働いて、専業主フやりたい人は専業主フやろう!」という流れになるべきだが、実際の世の中はそうなっていない。多様性とか言いながら、古い価値観を否定したいだけの人間が大勢いるのだ。
そういう古い価値観を否定したい人物に踏みにじられる存在が、啓喜だ。確実に正しい側の人間である啓喜に救いがないことで、この作品の「多様性なんて認められてないじゃねぇか」という主張に切れ味が増していると思う。
 
さて、次は自分を「正」の人間でないと思っているグループについて言及する。
夏月・佳道・大也(小学校教諭の矢田部もパーティのメンバーであるが、サブキャラのため言及はしない)の3人だ。
人間ではない”とあるもの”に性欲を抱く彼らは、世の中の男女の恋愛や性欲を前提とされるものすべてについていけず、そのせいで自分を社会から外れている存在だと思っている。ミスターコンに入賞するイケメンでも、真面目な会社員でも、この世で正しいとされる性欲を持っていないだけでこの世の部外者になるという感覚は想像してみると大変なことだ。
このメンバーのうち佳道と大也は児童ポルノ所持の疑いで逮捕されてしまうが、それでも救いがある。
まず、彼らの欲は守られた。彼らにとっての本当の欲望の対象については何もバレていないのだ。"普通"の人たちには想像できないような欲であること、秘密をとことん守るルールを遂行したこと、この2点があったから、彼らの欲望の対象が規制されることはないし、心の居場所は守られた。釈放後、犯罪にならない範囲で、例えば彼らだけで施設をレンタルして思う存分欲を満たして欲しいと思う。
そして、彼らは仲間を見つけられたこの広い世界でこの性癖を持つ者たちが巡り会えたことは、彼らにとって本当に奇跡だと思う。
  「〜がうれしかった。私も。私も私も私も。」「俺も一緒」(p.203 l.2-3)
このシーンが大好きだ。生まれて始めて思う存分欲を満たせて、生まれて始めて同じ欲をもつ仲間と出会えた。その高揚と安堵と興奮が伝わる文だ。
 
ここまでの内容をまとめると、
一番良い立場にいるのが八重子
良い立場にはいないが救いがあるのが夏月・佳道・大也
良い立場にいるのに救いがないのが啓喜
夏月たちが救われている点には作者の優しさが感じられるが、啓喜が救われず八重子がいい思いをしているのは、完全に世の中への皮肉だと思う。
 
さて、こんな世の中で私はどう生きていけばいいのだろう。
本当の意味で多様性を受け入れようとしたら何もできなくなってしまうし、
多様性を認めないと言えばこの世の中に適していないと言われるはずだ。
もう、行き止まりである。何をしたって、この世の中で「正しい」とされる範囲で生きなければ、生きづらいままだ。
それでも、「あってはならない感情なんて、この世にない」。生きづらい考えを持っていようとも、その考えを持つこと自体は罪ではない。そのことだけは常に心の中に留めていたい。